1904年10月15日、バルチック艦隊はリバウ軍港を出航した。10月21日深夜、バルチック艦隊は北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまう(ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾き、イギリス植民地の港へのバルチック艦隊の入港を拒否した。以後バルチック艦隊はイギリス海軍の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた。[6]
1905年3月16日、バルチック艦隊はフランス領マダガスカル島のノシベ港を出航した。この時点で旅順要塞は陥落し旅順艦隊は壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の回航の目的は達成困難になっていたが、バルチック艦隊はウラジオストクを目的地として航海を続けた。インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われた。5月9日、第2・第3太平洋艦隊はフランス領インドシナのカムラン湾で合流した[6]。
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連合艦隊の警戒網 [編集]
日本海軍の連合艦隊は、1904年8月10日の黄海海戦でロシア太平洋艦隊主力の旅順艦隊に勝利し、8月14日の蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊にも勝利して、極東海域の制海権を確保した。1905年1月1日には旅順要塞が降伏して旅順艦隊の残存艦艇も壊滅したため、一旦ドック入りさせると共に、入念に射撃訓練を行ない、バルチック艦隊の迎撃に専念できるようになっていた。
問題はバルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかである。カムラン湾からウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。3箇所すべてに戦力を分散すれば各個撃破されかねず、戦力を集中していずれか1箇所に賭けざるを得なかった。とはいえ、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過するためには、距離が遠いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要がある。津軽海峡は日本側の機雷による封鎖が厳重になされていた。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置するとともに周辺海域に警戒網を敷いた。